前回に引き続きこのタイトルそしてこのシリーズの内容に携わることは、ブログあいストリートを創立した目的の一部を果たすものですので、この回から記事の構成を普段とは異なる段落仕立てでじっくりといきたいと思います。
つきましてはこれまでのトーク的な印象から、やや書籍的な堅苦しさを感じることがあるかもしれませんのでご了承ください。
現代の戦争というと核兵器による大量殺人でさえも可能な時代になっているんですけど、まだそうした兵器が開発されるずっと以前から、人類は戦争という武力闘争を繰り返しては、人命を顧(かえり)みずただ敵を倒すことだけに囚(とら)われ、その結果多くの民衆の命を犠牲にしてきた愚かな歴史を刻んてきました。
その昔まだ刃物や槍など飛び道具ではない武器が全盛だった時代には、戦場において兵士同士の殺し合いこそあったものの、当事者同士の争いに全く関係のない民衆への被害は最小限に抑えられていました。
でも銃という火薬を利用して飛距離を出す飛び道具が武器として使われ始めた頃から、当事者同士だけに留まらず周囲にいる民衆にも流れ弾など(または意図的)で被害が及ぶようになっていきました。
そして今や圧倒的な推進力を有する様々なミサイルや大陸間弾道弾など、隣国への攻撃もたやすい兵器が配備される時代とあって、一度砲火を交えれば当事者よりも圧倒的に多くの無関係な民衆の犠牲が成立してしまうことになります。
もうこうなってしまうと、戦争イコール民衆虐殺という本末転倒な定義すらあり得るかのような状況で、果たして当事者の大義のために戦争を行うことが真の正義と言えるのか、ただ単に当事者の意地や名誉を満たそうとするだけの欲望のはけ口になっていないか、こうした素朴な疑問が浮かび上がるのももはやこの世の必然かもしれません。
戦争とは主に国家や地域など主導者が担う特定の領域や聖域に対して、他域の主導者が何かしらの理由から「抗(あらが)おう」とする行為や状態を意味するところが大きいとされます。
また抗うというのは、相手に対して自分の立場や意見が無視されたり拒否された時に芽生える対抗心(●●●)により、相手を駆逐することで強制的に自分善(よ)がり(自分善がりに関する記事はこちら)な思想を正当化する行為でもあります。
一般的には人が対抗心を芽生えさせるにはそれ相応の事由と時間が必要で、そのような状況に陥る前には相手と何らかのやり取りが行われ、どこまで相手との歩調を合わせ理解し妥協できるか可能な限り模索することが健常人であると言えるでしょう。
ただそれでも相互間に思想のギャップが著しくこれまでの尽力が破断することも当然であって、その経緯の正否に関わりなく主導者が"自分善がり"を強要する気質であれば、その時点で対抗心が芽生え始めそのまま戦争への序曲が奏でられることになります。
その一方で主導者が人として調和と共生を第一に重んじる気質であれば、一度破断しても諦めることなく相互の立場や存在意義を重んじながら、それぞれの理解をより一層深めようと尽力し、時にはへり下り反省しつつも時には毅然と物申し譲歩を求めつつ、公平・公正な判断で妥協しいさかいなく和平の道が開かれていくことになります。
このように戦争が生じるという現実は、領域や聖域を主導・管轄する者の気質によりその是非がほぼ決定されていて、その当事者もこれまでの人類戦いの歴史に魅了され自らも野心を抱いたり、自身の家系そのものが主導者系統の血筋でその地位が常態となっているなど、実社会の中でそもそも民衆の意を汲む度量のない者がその座になるべくしてなっているという現状があるのです。
つまり時の主導者としての気質が戦争との因果関係に強く結びついているわけで、これが歴代に渡り継承され続ける限り戦争の歴史に終止符は打てないというのが、人類最大の哀しい宿命とも言えそうです。。。