前回は人類に戦争をもたらしているそもそものきっかけや原因となり得る、自分善がりな気質について取り上げましたが、今後はその原因を生み出している人間の本質について更に掘り下げていこうと思います。
ところで皆さんは日頃スポーツ鑑賞を楽しんでいますか。
人類の歴史の中で古代から営まれ現代に至るスポーツ文化は世界各国で共有されていて、多くのファン層による確固たるサポーターはもちろん、今や国際オリンピック委員会(IOC)や国際競技連盟(IF)、国際スポーツ・フォー・オール協議会(TAFISA)等専門の国際支持機関・組織・団体があるほど、人類のスポーツエンターテイメントへの興じぶりは留まるところを知りません。
ここで誤解がないように前もって伝えることは、厳密には純粋なスポーツとスポーツエンターテイメントとは異なる部類であるということです。
ここで言う純粋なスポーツとは、一人一人が行う運動行為の類であって、本来他人にみせたり評価されるべきものではなく、元々身体を動かすのが好きだったり楽しく心地よく感じられることで、自身の気分が快適になるなどして結果的に心身の成長と安寧につながるという位置づけに他なりません。
その一方スポーツエンターテイメントとは、その名のごとく他の人々にみせる・みられることが神髄にあるもので、その状況を目にした人々に何らかの心理的影響を与えるだけでなく、ビジネスとして対価や報酬いわゆる興行収益を得られる性質を持つもので、これらは古来から続いている伝統行事の一つという位置づけに当たります。
そこでこのスポーツエンターテイメントについて考えてみると、私たちがみるほぼすべての内容が競技(●●)に該当するものであることが分かります。
競技という意味は文字通り選手やチームの「技」を競い合うもので、そこには個々の華麗なテクニックや振る舞いに魅了されるだけに留まらず、少なからず他の選手やチームと競合させ、そこに優劣(●●)の順位を設けることで個々の価値を客観的に評価するシステムを採用しています。
ただ競技に優劣を施すということは、純粋な「技」の差という本来ある概念以上に「力」の差を意識させることもあり、多くのスポーツエンターテイメント愛好家にとって、そこから見出される競技の共感性は一人一人異なることになります。
特に一般的なメディアで放送される公共スポーツエンターテイメントのほとんどが、そうした優劣を勝敗(●●)として位置づけていることは周知の事実ですし、それにより確固たるファン層を獲得していることもまた事実です。
もちろん純粋にスポーツとしての「技」を楽しみとするファン層が大半なのは言うまでもないんですけど、その一方で優劣すなわち勝敗のみに執着したファン層の数も決して少なくないということもできます。
そして後者にとって最大の特徴は、お気に入りの選手やチームの「技」の良し悪しを「力の強弱」としての評価に転換され、やがてそれが能力(●●)の優劣として定着していくところです。
また後者においては勝敗結果に対する心情のブレ幅が大きい者ほど、勝利した強さをより崇(あが)め尊び、敗北した弱さをより蔑(さげす)み卑下する傾向があるようです。
更にはスポーツエンターテイメントそのものが同じ人間の肉体を象徴しているからこそ、観る人もまた選手との共感性を高めやすいという独特の利点もあって、目の前で行われている状況と一体感を味わえることが最大の特徴です。
ただしその反面さきほどの後者の視点から言えば、少なくても脳内ではお気に入りの選手やチームに相対するものを仮想的な敵(●)とみなし、「力」によってその敵を打破し勝利することを切望しているからこそ、その結果により激しく一喜一憂し動揺する心情や姿を垣間見ることができます。
それにこのでは世界には他にも、eスポーツを始めチェスや将棋・オセロなどの主に知力を競う競技もあるけれど、共感性の点でみると身体力を競うスポーツエンターテイメントはやはり別格の存在であると言えますし、また世界全体が一丸となって継承している人類の伝統文化の代表格でもあると言えるでしょう。
それゆえスポーツエンターテイメントの存在は、人類の中に一定数存在する「威厳ある力」に執着する者たちにとってもゆるぎないもので、"「力」こそ絶対"、"「力」こそすべて"、"「力」こそ偉大"という自らの信仰心を鼓舞できるだけでなく、観衆の深層心理にも無意識のうちに浸透・定着させることもできる、最適かつ最善な世界共通の広告塔でもあるのです。
このように古来から受け継がれているスポーツエンターテイメントとは、純粋なスポーツとしての妙技を披露するだけてなく、そこに仮想的な敵を連想させることで能力の優劣に裏打ちされた「力」による勝敗を争うという二面性を享受するものと言えます。
こうして多くの人類にとって「力」を誇示する文化の継承は、社会的秩序を保つ上でも重要な位置づけであるというだけでなく、その中にいる「威厳ある力」をモットーとしている人々にとっても、自身の存在価値を維持し続ける源流として欠かせないことなのです。